ドイツではまだコロナで電車の中でマスクが義務になっていた、でもイギリスではマスク義務が解除されたばかりの頃の話。ドイツの電車に乗っているとマスクをつけない人が1割くらいはいた。電車の係員が彼らに注意をする時、高齢者も乗っているのだから高齢者に「リスペクト」を払ってください、という言い方をしていた。私は日本と言い方が違うなと思った。日本でなら間違いなく、他の方の「ご迷惑」になるからという言い方をする。この違いって興味深いなと思った。日本では「迷惑な人」だと言われる時、個人が否定され時には罪人であるかのように非難されるのに対し、ヨーロッパではリスペクトを払える「成熟した立派な人間」であるように諭される。決して個人を否定するような言い方はしない。
日本では他人に迷惑をかけてはいけないと言われるが、他人をリスペクトしなさいとは言われない。これは世界においては特殊なことで、もちろんいい面もある。たとえば災害が起ったとき、日本人の秩序だった行動は世界から称賛される。それでも、そもそも他人に迷惑をかけずに生きることなど社会生活を営む私たちには不可能なことだ。社会の前で簡単に個人が否定され罪人のように見られる社会は人間にとって優しくないストレスフルな社会だ。お互いに迷惑をかけてはいけない社会より、お互いをリスペクトする社会の方が居心地がいい。
迷惑をかけてはいけない社会は同調圧力が強く多様性を認めない社会だ。リスペクトし合える社会は互いの多様性を認め人としての尊厳を尊重し合える社会だ。違いがあるからと言って邪魔者扱いされたり肩身が狭く小さくなる必要がない。今の日本社会に必要なのは間違いなく人と人とが互いにリスペクトし合えるということだ。迷惑をかけていないかと小さくなったり、互いに見張り合い迷惑のあら探しをしてけなし合うからリスペクトロスな社会が出来上がる。それは世界的に見れば非常識で狂った社会だ。社会常識が人間にとって不自然で異常な時、そこに人間を張り付けておくために互いを見張り合う必要が生まれる。それは歴史が証明している。戦争中や社会主義体制の中で互いを見張り合ったのは、当時の社会常識が不自然で異常だったからで、今の日本も似たようなものだ。
互いをリスペクトする社会を目指すのか、互いに迷惑をかけないことを目指すのか、同じようでいて全く違う社会になる。私は互いをリスペクトする人間関係の中で暮らしたい。互いを尊重し合う環境は全く居心地が良いからだ。見張り合う社会が居心地がいいわけがない。秩序あるリスペクトを基盤にした社会、だから多様性があり個人の尊厳と自由が尊重される、それがドイツ社会だ。
ドイツでは若者がお年寄りに席を譲ることはごく自然で当たり前なことだ。お年寄りに敬意を表する、リスペクトすることは自然なことで称賛されるほど珍しいことでもない。ごくごく自然に席を立って当たり前のように振る舞っている。互いにさりげない助け合いや他人を尊重する心の余裕をドイツではたくさん眼にする。驚くのは助ける方も助けられる方も特に言葉を交わさないことがあることだ。そのくらい当たり前なのを何度も目の当たりにすると感動さえ覚える。何ら見返りの言葉も求めず黙って困っている人を助けそっけなく立ち去っていく若者たちはメチャクチャカッコいい。意識高い系だと揶揄されることはもちろんない。意識が高いのではない。それは人として自然で当たり前の良識なのだ。リスペクトと助け合いがビックリするくらい当たり前だから、車椅子で街中を自由に行動する人をよく見かける。バリアフリーが充実しているからではない。邪魔者扱いされず自然に助けてもらえるからだ。
ドイツでは高齢者も障がい者もベビーカーを押したお母さんも邪魔者扱いされないし社会に対して迷惑をかけていると思う必要がない。周りの人も迷惑だと思わないし、そもそもそんな発想自体がない。もはや働けない(経済に貢献できない)人は社会に迷惑をかけるお荷物で邪魔者であるかのような、そんな意識、無意識は世界の大部分では非人間的で不自然な考え方で、ドイツでは社会的弱者が邪魔者扱いされ肩身が狭い思いをする必要もない、優しい、安心できる社会だ。当たり前のように強き者は弱き者を助ける。そこにあるのは迷惑をかけてごめんなさいという自己否定ではなく、助けてくれてありがとうという自己と他者への肯定と感謝だ。
人間の社会はこうあるのが人間にとって居心地のいい自然な姿だ。経済を優先するがために人間をただの労働力の駒のようにみなし、働けるかどうかで人間の価値を判断する社会は人間に対するリスペクトが欠けている遅れた社会だ(実際に日本社会を主導している官僚や支配層が見せる国民へのリスペクトは見せかけでしかなく、本音は傲慢と軽視だ)。トップがそうなら、社会の様々な場面で非人間的な問題が起こるのは当然のことだ。それは経済にとって理想でも、人間にとって理想ではないことは明らかだ。ドイツ社会を見れば、経済と人間のバランスをとることは可能だ。なぜそれが実現できるのか、それは実際に体験しなければ理解することが難しい。少しずつでも日本社会が変わっていくためには少しでも多くの人が他国を知るということはとても大切なことだ。